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連載「新美声学」(うたのすすめ)059:絶叫声楽コンクール

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連載「新美声学」(うたのすすめ)059:絶叫声楽コンクール
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 声楽コンクールが花盛りです.昔歌のコンクールと云えば毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)くらいのものでしたが、今や日本だけでは収まりきれないのか、国際何やらコンクールなどと名称だけは立派だけれど、雨後の筍のように数多くの声楽コンクールが開催される様になりました。
世界三大国際コンクールと云えば、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールと云う事になります。
そもそもコンクールは若い音楽家達の登竜門としての存在意義があるものでしたが、近頃の声楽コンクールはプロを目指す音楽家に止まらず、アマチュアの声楽愛好家がコンクールを受けるようなご時世でもあるのです。
アマチュアでコンクールを受けるメリットは人それぞれでしょうが、例え優勝してもプロの歌手に転向できる様な声楽業界の受け皿は余り耳にした事はありません。確かに日本に於いてもマネージメントはありますが、海外のそれらと比べて規模や知名度は比べ物にならず、アマチュアがコンクールを受ける目的は個人的な満足に止まるのでしょう。
私は嘗て一度もコンクールを受けた経験はありません、と云うのも大学を出て二期会研究生を卒業して間もなく二期会のオペラに出演するようになりましたし、他のオペラ団体からのオファーもあり、所謂登竜門としてのコンクールを受ける必要が無かったからです。
最近の日本国内に於ける声楽コンクールの傾向や受賞者の演奏を聴いて感ずるのは、評価基準が音楽の演奏内容よりも如何に高く大きな声が出る規格に達しているかでしょう。
声楽コンクール受賞者の披露演奏会などを聴くと、押し並べて声は大きく、やたら高音域が出てくる曲を選ぶのがマニュアルかの如く、闇雲に大声で高音域を叫ぶのが目立ちます。幾ら悲しく悲壮感のある場面のオペラアリアでも最高音へくるとお構いなく大声で叫びまくる。果たしてこれが音楽と云えるでしょうか。その上受賞者は同じ様な傾向の歌手ばかりが入れ替わり立ち替わり、延々と授賞披露演奏会は続けられるのです。
ゴルフに例えればこれはゴルフトーナメントではなく、ドライビングコンテストでしかありません。日本の声楽コンクールがこうなってしまったのは、出場者の所為でしょうか、それとも審査員や教育の所為でしょうか。

連載「新美声学」(うたのすすめ)060:リサイタルと村社会

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連載「新美声学」(うたのすすめ)060:リサイタルと村社会
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 リサイタルとはrecite[動]朗唱する、から発生した言葉ですが、独唱(奏)会と云う用語に定着した感があります。
リサイタルとは通常、著名な演奏家がその人の演奏する音楽を聴衆の皆さんにたっぷり味わって頂くために企画された、いわば独演会なのです。従って並の演奏会とは違って、楽壇に於いて可成りの知名度があり、その人物の演奏を多くの人が待ち望んでいるような場合に開催されるものだと思われます。
ところが日本に於けるリサイタルの実情は、所謂コンサートと同じ様な意味で使われている場合が多いのではないでしょうか。演奏会案内などに眼を通してもリサイタルとコンサートの区別は判然としないのです。
リサイタルと名打つからには相当有名な演奏家と思いきや、何処の馬の骨だか分からぬ人物だったり、そればかりかアマチュアの音楽愛好家が開催するリサイタルだったりするに至っては、私の持つ語彙の概念を自分自身で疑わざるを得なくなってしまいます。
まあ日本音楽界の発展の一翼を担うとすればリサイタルであろうとコンサートであろうと、100歩譲ってそれも良しとしましょう。
それにしてもこれらの演奏会の中身を垣間みると、よくぞこれだけの内容と人材でこれ程の入場料を取るものだと感心します。
無料の演奏会の場合、演奏会の中身と料金とのコストパフォーマンスは問題になりませんが、例え100圓たりとも有料である限り、それは営利行為と見なされても仕方ありますまい。つまり料金を支払う観客の満足感に応えるに相応しい内容かが問われるのです。
プロの場合、リサイタルの企画などは大部分所属の音楽事務所が企画し開催しますので、それなりの手順とコンセプトを持った演目となるでしょうが、個人で企画されたリサイタルなどは自分の演奏したい曲目を並べただけの独唱会であり、コンセプトも無ければ観客のニーズにも応えられぬものと成り果てます。
なぜこのような独断的な演奏会が生れるのでしょう。それは独唱会を開く個人の背後に親戚縁者集団の村社会の存在があるからで、かなりの高額入場料を設定しようとも、これら親戚、友人、弟子などの縁者がこの会の収支決算をバックアップするシステムがあれば、何の不都合もなく自分の思うままのリサイタルが思う様に開ける、そして村社会の観客は不平一つ云わずにリサイタルを聴くのです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)061:暗譜

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連載「新美声学」(うたのすすめ)061:暗譜
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 大部分の演奏家の悩みと云えば譜面が憶えられなくなったという事ではないでしょうか。まあ一つの社交辞令と云ってしまえばそれまでの話ですが、売れっ子の芸人が睡眠時間の短さを嘆くように、少し遜った形の自分の演奏活動の自慢話と受け取れなくもありません。
オペラは暗譜しなければ勝負にならないのは勿論の事です、でもコンサートはなぜ暗譜が必要なのでしょう。眼を閉じて指揮するカラヤンのカリスマ性は別格として、コンサートでは別段譜面を見ようが見まいが関わりのない事だと思われるのですが、オーケストラや合唱の演奏会なら兎も角、独唱やピアノソロなどは当然のように暗譜のステージが求められるのは理不尽とさえ思われるのです。
思うに独唱の場合、譜面を見ながら歌えば当然伏し目がちとなり姿勢も悪くなるでしょうし、よしんば譜面を見るとしても歌う時は顔を上げなければ声も通り難いに違いありません。ピアノソロにしても弾きながら途中で手に唾して譜面を捲る図、などは余り想像したくないものです。ビジュアルな面でこれらの演奏には暗譜が必要なのは分からなくもありません。しかし問題は独唱やピアノソロは暗譜でなければならない、と決めつけてしまうのは如何なものでしょう。
問題は違う所にあるのではないでしょうか、それは曲を仕上げて行くプロセスに誤りはないかと云う事です。
オペラは歌を暗譜せずして演じられるものではないのが大前提であるのは当然なだけにオペラに出演するからには先ず歌を覚えるのは当然だと云う覚悟の上で出演を決めます。
更に都合の良い事には芝居の立ち位置や演技と歌とがシンクロして頭に入る事でしょう。特に歌詞などは演技に直接影響を及ぼしますので殊の外覚え易くなると云うものです。
オペラにはこの様に複数のものを同時に記憶せざるを得ない故に返って覚えが進むという特典がありますが、コンサートなどにもこのような方法が生かせないものでしょうか。
メロディと歌詞をそれぞれ独立した形で記憶しようとするのが最も効率の悪い方法で、そこには関連が生まれないだけに記憶は進まない結果となるのです。更に付け加えるべきは個々のパッセージの発声技術をも同時に記憶すべきであって、言葉の意味、旋律の動き、適切な発声技術のあり方をも同時に視野に入れてこそ演奏できる形が完成するのです。連載「新美声学」(うたのすすめ)061:暗譜
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

連載「新美声学」(うたのすすめ)062:Mezza di voce

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連載「新美声学」(うたのすすめ)062:Mezza di voce
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 mezza di voceとは半分の声と云う意味で、小声ではないにせよ楽な声と云う事になりましょう。ゴルフで云えばハーフショットになりますが、両腕を右肩から左肩までの180度振るスイングはゴルフスイングの基礎を学ぶ方法として取り入れられています。
これと同じ考え方で歌唱技術の基礎練習としてお薦めするのがmezza di voceで、楽に出る声とは楽なブレスで歌えるのに繋がるのが最大のメリットと考えられるでしょう。
ゴルフでもそうですが始めのうちは身体に余計な力が入ってしまい、思う様な球は打てません。始めからフルスイングをするのではなく、小さなスイングから始動して行けば身体は自然にほぐれ、良いショットに繋がるように、mezza di voceは喉のウオーミングアップに止まらず、発声技術のディテールを習得するためには欠かす事の出来ない練習方法だと云えるのです。
第1に発声技術の基本と思われるのは息の使い方でしょう。mezza di voceで声を出すと云う事は必要以上の圧力や量のブレスを使わないメリットがあります。寝息を使ってより響きのついた声を出すためのヒントを探す、ここに着目すれば声帯の使い方の工夫が自ずと見えてくる筈です。
第2に声を響かせるための器官の所在とその使い方です。mezza di voceは大声で歌う場合と違って声の通りの良さ、つまり声の運動エネルギーを向上させ、小さな声がどのくらい通るか、と云った演奏の基礎について確認する事ができるでしょう。
第3に従来の発声技術には見る事の出来ないアクートの唱法を身につける糸口となる事です。アクートは声帯全体を閉じ、これを引き伸ばす事によって全音域をカバーする声の出し方ですが、初めから大声でこれを試みても従来の技術との違いについて判断するのは難しく、つい息の圧力や量で押し切る怒鳴り声を繰り返す結果に陥ってしまいます。
飽く迄も声帯全体を閉じ、引き伸ばす事によってのみアクートは会得される事を知るためにも、このmezza di voce の訓練は大きな効果を生む事に繋がるでしょう。
以上がmezza di voce に対する私の見解ですが、全て小さな動きと云うものは人間の繊細な感覚を育てるものです。そこにはまるで人間の核のような宝物が息づいているのを知る事で、更なる進化が期待できるのです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)063: ヴィブラートの正体

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連載「新美声学」(うたのすすめ)063: ヴィブラートの正体
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 アクートが会得できれば美しいヴィブラートのついた声が出る様になります。
ただその前にヴィブラートとトレモロ、揺れ声の区別がつかなければ意味がありません。
ヴィブラートはトレモロや揺れ声とは違って揺れ幅や周期が一定したもので安定したものだけに聴いていて美しく感じるものです。
周期:高音域で6~10/秒、低音域で3~5/秒。振動幅:5~7Hz、振れ幅は強弱に支配されており、動きは均一で、基準の音よりも低い音の間で震えるのが一般的で自然なヴィブラートとされています。十分な声門閉鎖による声帯伸展と適切な呼吸圧により自然に発生します。
高い音は揺れる回数は増え、低い音になればその回数は減りますが、揺れ幅は一定で、ブレスのスピードが上がればヴィブラートは明確に発生し、スピードを落とせばヴィブラートの存在は薄くなります。声をdim.した場合ヴィブラートは無くなり、また柔らかな響きの声、ブレスのスピードがないdolceな声で使うときなどにもヴィブラートは発生しません。
トレモロや揺れ声に不快感を覚えるのは、小さな声になった時でも声の振動や揺れは続き、ノンヴィブラートで歌えないからでしょう。
そこで美しいヴィブラートがつくアクートについてもう少し詳しくお話しましょう。
声帯は甲状軟骨(喉仏)の中に収まっていて、甲状軟骨と土台となる輪状軟骨との間には輪状甲状筋という2本の筋肉で繋がっています。アクビなどをすると輪状甲状筋は収縮し甲状軟骨は前傾しますが、甲状軟骨の中にある声帯は披裂軟骨に繋がっているので甲状軟骨が前傾すれば声帯は引き伸ばされます。ですから、よく歌のレッスンなどでアクビをするような気持で歌ってご覧なさいと云われるのは、あながち間違いではありません。
声帯全体を引き伸ばす事によって全音域を賄うとなれば、例え高音域になっても声帯全体を使うのですから倍音がつき易くなるのは当然でしょう。この時息のスピードを上げる、つまり水道に繋いだゴムホースの先を摘めば、水の量や基の水圧には関係なく水の勢いが増すのと同じ理屈で、声帯を確り閉じると声のスピードがつきヴィブラートは発生します。
声帯を閉じるには唾を飲み込もうとすれば、声帯は食道と気道の分かれ目に位置しますので、誤嚥を防ごうとして声帯を閉じる嚥下反射を利用して声帯を閉じる事ができますし、息のスピードを下げればヴィブラートは取れます。

連載「新美声学」(うたのすすめ)064: 音楽余話:我らがターチャン

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連載「新美声学」(うたのすすめ)064: 音楽余話:我らがターチャン
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興    

 ターチャンとは立川澄人さんの愛称です。私は立川さんと呼んでいましたが、仲間内での話になるとなぜかターチャンの方がピッタリするのは立川さんの気さくな人柄によるものでしょうか、立川さんも同じ九州大分の出身であったせいか、私の事を「松ッアン」と呼んで懇意にして頂きました。
学生時代、立川さんとは同じ九州の出身だと云うと「アラ、御親戚?」と言われたものですが、似ていると言えば横須賀線の電車の中で団伊玖磨先生に間違えられた事もありました。要するにその手の顔なのです。
関西労音、神戸での「フィガロの結婚」公演の時、二幕で伯爵に扮する立川さんが伯爵夫人の部屋のドアを壊そうと金槌を振り上げるシーンがありました。本物を使うには重くて手足纏いだし危険でもありますので頭の部分がゴムで作られた小道具となっています。
立川さん「この戸を壊しますぞ」と勢いよく振り上げたのは良いが、弾みで金槌の頭が飛んでしまいました。飛んだだけなら未だ良かったのに金槌の頭は彼の目の前に落ちてきました。本物だと大変危険なのですがそれを見越したかの様に頭はゴムで出来ています。
落ちて来た金槌の頭は立川さんの目の前で二三回弾みました。舞台上に居合わせた歌手は勿論の事、観客も目ざとく見付けて笑い出す、歌うどころの騒ぎではありません。劇場全体笑いの渦の中で空しく伴奏のチェンバロだけが鳴り響いていました。
ゴルフも度々御一緒しました。酒も煙草も嗜まぬ立川さんの唯一の趣味ではなかったでしょうか。何しろ底抜けに明るいゴルフで、OBになると「アリャー!」短いパットを外せば「ヒャー!」それはもう賑やかな事夥しく、オペラ歌手であるから声は人一倍良く通りますし。同じパーティーでなくとも彼がパットやショットに失敗した様子は他のパーティーからも手に取るように分かる光景でした。
本人としては全く大真面目でプレーしているからこそあれだけの大声が出るのでしょううが、それが又妙に滑稽で同伴者の雰囲気を和らげます。幾らスコアーが悪くとも決して不機嫌になったり、投げたりはしない、その上、後輩の私などに対してさえも気配りを怠らないのは、単に立川さんのサービス精神の旺盛さだけとは言ってしまえない何か人間的な魅力を感じたものでした。
未だに56歳の短い生涯が惜しまれます。

連載「新美声学」(うたのすすめ)065: 力を抜くと云うこと

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連載「新美声学」(うたのすすめ)065: 力を抜くと云うこと
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興    

 あらゆるジャンルに於いて脱力と云う言葉を耳にします.余分な力が入る事が如何に人間の活動や思考の妨げになっているかを説いたものでしょう。これらの障害の原因となる大部分が精神的な要因である事、つまり人間の煩悩からくるものが殆どだとすれば、技術習得の際にこれらの精神面の鍛錬も問われるのではないかと思うのです。
角界で語られる心技体のように、体力、気力、技術力が揃う事が精進の究極の目的とされてきました。横綱千代の富士の引退声明は「体力の限界、気力も無くなり引退する事になりました」でしたが、ここにも身体と精神の重要な関係が述べられています。
余分な力を抜くと云う作業を行うためにはどこに余分の力が加わっているかを知る必要が生じます。更に云えば人間全身の力を全て抜いてしまえば横たわる以外方法は無いわけですから、必要な力はどこにどれ程必要か、と云う事さえ考えなくてはならないのです。
ゴルフスイングでも飛距離を出すためにはクラブを早く振るスイングスピードが求められますが、その最大の要素は如何に身体をリラックスさせるかと云われています。
これは理屈としては理解できても実体験として感じ取るには、余りにも難しい事で、脱力したスイングが出来た時に始めてこのようなものかと振り返って実感するものでしょう。
歌のアクートについても同じ様な事が云えます。アクートで歌うためには声帯のある甲状軟骨を前傾させて声帯全体を伸展させる事によって高音域に対処する技術ですが、このとき高音域を出すためにブレスの圧力や量を急激に増やすと、折角前傾していた甲状軟骨は元の姿勢に戻ってしまいます。
これが余分な力を加えない実態なのですが、経験してこそ初めて分かる所が難しい技術と云われる所以ではないでしょうか。
元巨人軍の名打者川上哲治氏がプロゴルファー中島常幸氏と対談した折、中島さんが自分の精神力の甘さを恥じた所、川上さんは精神力すらも高い技術力があればどんな苦しい場面でも乗り越えられるのだ、と諭した話を聞いて改めて感じる所がありました。
精神主義の好きな日本人は何かと云うとすぐに気力とか根性と云う言葉を振翳しますが、高い技術力を持つ事で強靭な精神力は備わると考えた方が分かり易く、脱力についてすら高い技術力が全てを解決するのでしょう。

連載「新美声学」(うたのすすめ)066:ReadingとSinging

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連載「新美声学」(うたのすすめ)066:ReadingとSinging
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 私の親友に同志社女子大学名誉教授で英文学者の尾崎寔君がいます。福岡高校時代の友人で共に音楽部に在籍していました。
これは後日彼から聞いた話ですが、ある日英語の魅力に取り憑かれ、同志社大学英文科を目指すきっかけとなったのが、1954年に上映されたイギリス、イタリア合作映画「ロミオとジュリエット」を観た事だったそうで、今や彼はシェークスピア研究家の第一人者であり、著名な英文学者でもあります。
昨年秋、大学の恩師であるリンドレー・ウィリアムズ・ハブルの没後26年に詩人である恩師の詩の朗読会を母校で開きました。
ハブルという人は何でもハップル望遠鏡で名高いエドウイン・ハップルの縁者で、10歳の頃にはシェークスピア劇を全て諳んじていたというシェークスピア研究家でもあり詩人でもある人で、1953来日し同志社大学の教授に就任、93歳の生涯を閉じるまで日本名、林秋石として日本に帰化した人なのです。
このハブルの詩の朗読会は評判を呼び、翌年にはハブルの詩集と公演記録をおさめた本、「ハブルに魅せられた人たちのために」が刊行される運びとなりました。
「ハブルに魅せられた人たちのために」の中に次の様な記述を見ることができます。

*英語は音、日本語は絵。
私たちの目は仮名漢字まじり文に慣れてしまい、「読む」といえばどうしても目で文字を追うことをイメージしてしまう。アルファベット表記の言語の場合、文字は音符と考えたほうがいい。つまりreadという英語は「音読する」という意味なのだと考えるべきだったのだ。もちろん英国人であれフランス人であれ、ふつう本は黙って読んでいる。しかし、同じ黙読でも頭の中では「音が流れて」いる。流れであり、もっぱら漢字という絵が脳裏に映し出される日本語の場合とのあいだに根本的な違いがある。

私が初めてシェークスピアの原語上演の芝居を観た時、その台詞回しの流麗さに、これはまさに歌だ、と思ったのを思いだします。それ程シェークスピアの作品は精錬されたものだったと云う事にもなりましょうが、表音文字と表語文字の文化の違いを感じざるを得ません。台詞は歌うが如く、歌は語るが如し。と云われてみても、なかなか日本人に歌うが如き喋り口が見当たらないのは言語形態の違いとばかり言い切れるのでしょうか。

連載「新美声学」(うたのすすめ)067:とんでもございません

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連載「新美声学」(うたのすすめ)067:とんでもございません
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 外国人ならずとも日本語の敬語や丁寧語は難しいと云われています。この「とんでもございません」もその例の一つで、基の「とんでもない」と云う言葉を「とんでも+ない」と勘違いしたばかりに「ない」の丁寧語に「ございません」を付けて「とんでもございません」が出来上がったものと考えられます。
「とんでもない」は「途でもない」からきた言葉で、途方もない、思いがけない、と云う一つの連なった言葉であり、従って「とんでもない」の丁寧語は「とんでもない事でございます」又は「とんでものうございます」となります。この様に本来の意味を知らずに生れる造語や言い伝えの誤りは数知れません。
これとは逆に日本語を基として考えられた外国語も外国人にとって奇妙な言葉として映るに違いないでしょう。所謂和製英語等です。
バックミラーなどもその一つで、後を見る鏡のつもりでしょうが見るのならばミラーではなくビューでなくてはなりません。rearview mirrorまたはrear-vision mirrorと云うべきでしょう。後の窓のつもりでバックウインドと言えばback wind(break wind)オナラと取り違えられますので呉々もご用心を。
パスタ料理にトマトソースのナポリタンがありますが実はこれも和製料理で、イタリアにはナポリタンと名のつく料理はありません。横浜ホテルニューグランドの料理長入江茂忠氏が考案したれっきとした和食と云えます。
声楽の世界で日本独自に考えられたと思われる発声法が「腹から声を出す」ではないでしょうか。おそらく武道などで気力を養うために丹田を練るところから「腹から声を出す」発想が生まれたと云えるかも知れません。しかし不世出のテノールと云われたイタリアのエンリコ・カルーゾは「声は頭の後で響く」と語っています。ここに日本とイタリアの発声に対する科学性の違いが伺えるでしょう。
腹を主体にすると当然ブレスの問題が浮かび上がってくるでしょうし、頭を主体と考えれば声帯に関する言及と取れます。つまり日本発声法はブレス中心であり、イタリア発声法は声帯中心の技術と云う事になるのです。
日本の発声技術は長い間ブレスの圧力や息の増量に悩まされてきました。大きく響く声は息の圧力と量による、と考えたところに日本の声楽が他の国より遅れを取った最大の原因が潜んでいると云っても良いでしょう。それは単なる怒鳴り声でしかないからです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)068:あって七癖

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連載「新美声学」(うたのすすめ)068:あって七癖
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 昔の人は無くて七癖と人間の煩悩を諭すための立派な言葉を残しました。食べ物にしろ、人格にしろ、癖が無いと云われるのは八方当たり障りのない無難な事と云う印象を受けるものです。声や歌唱にしても癖の無い声、癖のない歌い方と云われるのは一つの褒め言葉なのかも知れません。
癖のない声とは例えばボーイソプラノの天使の様に澄み渡った声などを想像しますが、これが声楽的見地からは非の打ち所がないと云う訳にはいかないのが厄介な事なのです。
19世紀の半ば頃迄のイタリアオペラは所謂ベルカントオペラの最盛期でした。当時上演されていたベッリーニやドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラのテノールは全て高音域をファルセットで歌っていましたし、現在では考えられぬ事かも知れませんが、成人して変声期に声変わりせぬよう、去勢までしてボーイソプラノの声を保とうとしたのです。
これが当時のオペラの様式美であれば致し方のない事なのでしょうが、去勢されたカウンターテナーのその後の生涯を思うと、ベルカントオペラの繁栄の為とは云い、随分罪な事をしたものだと思わざるを得ません。
今では高音域を実声で歌う男性歌手の方が余程真面な歌唱法ではありますが、当時の演奏様式では男性歌手の実声での高音域歌唱などは癖のある声とされたのでしょう、現にロッシーニなどはウイリアムテルでジルベール・デュプレの実声高音を聞いた時、非常な嫌悪感を露にしたと伝えられています。カウンターテナーとアクートの高音も、時代が変われば立場も変わると云うものでしょう。
癖のある声とは発声技術上整合性が無く、聞く側にとって不快感を抱かせるものについてこの様に呼ばれているのでしょうが、元々人間の声は指紋と同じで100人いれば100通りの声が存在して何の不思議もありません。
人様に不快感を与える声は論外として、少々の癖は無い方がおかしな話で、できれば万人が美しいと認めてくれる声になりたいものですが、それをもって癖の無い声とは言い切れぬところに、声の面白さと云うか醍醐味があると云えるのかも知れません。
その昔、成人男子がボーイソプラノで歌った癖の無い声は、現代に於いて果たして、癖の無い美しい声と云う評価を受けるかについては色々意見の別れる所かも知れませんが、これも時代の流れなのでしょうか。

連載「新美声学」(うたのすすめ)069:勘違いと思い込み

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連載「新美声学」(うたのすすめ)069:勘違いと思い込み
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 敢えて誤解を恐れず申し上げますが、勘違いによる思い込みの実例を見たければゴルフ練習所に足を運ぶのが良いでしょう。
練習している大部分の人達があまねくゴルフボールは腕力があれば飛ぶと思い込んでいると云う事です。私もその例に漏れず長い間そう信じてきました。無理もありません、ゴルフクラブを振り回すのは腕ですので、腕力さえあればボールは遠くに飛ぶと考えるのが自然と云うものです。
所がプロゴルファーに云わせるとゴルフボールは身体の回転で飛ぶのであって、腕はその身体の回転によって振られるだけだと云います。つまり腕は何の筋力も使う事なくして、ゴルフクラブの繋としての役割しか果たさないと云うのです。その上身体の回転と云うものは股関節の動きによって骨盤は45゚回転し、腰椎10゚胸椎30゚肩甲骨のスライド5゚などの回転の合計でバックスイングが完成し、今度は左股関節の動きによって同じ様に身体は左方向に回転し、それによって腕が振られクラブも振られるためにボールは飛ぶと云うのであれば、これでは腕力、つまり腕の筋肉は殆ど必要なかったと云う結論になります。
さて次は歌の勘違いによる思い込みについて考えてみましょう。歌の勘違いと云えば先ず上げられるのが腹筋の鍛錬でしょう。
そもそも日本には昔から肝の座ったと云う表現があり、度胸のある存在感を示すための形容として使われてきました。この感性が大きな声と結びついて腹筋を鍛え、息の圧力や量の増加に繋がったのでしょう。
選挙運動後の議員の声枯れなどは、音声についての知識の無さを露呈していますが、訴えかけに大声、つまり怒鳴り声が効果的だと考えるような感性の持ち主を国民の代表として選出する訳にも行きますまい。
声の大きさでしか判断できぬ事こそ、音声に対する見識の無さが判明するのであって、例えマイクが無くても声の通りさえ良ければ、どんなに広い場所でも聞き届ける事は可能なのです。更に物事を訴えかける手段が怒鳴る行為では余りにも知恵が無さ過ぎます。
通る声を駆使するためには何が必要かを詮索しない限り更なる高みに達する事は出来ないばかりか、自分の声帯を痛め、嫌な癖のある声の持ち主となるでしょう。ここからの脱却は先ず怒鳴るのを止める、つまり寝息の様にスムーズな息を使う事に尽きるでしょう。っc

連載「新美声学」(うたのすすめ)070:実行前の道理

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連載「新美声学」(うたのすすめ)070:実行前の道理
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 新しい事を始めようとするのは何と気分が昂る事でしょう。結果を思い描くだけでも何とも云えぬエキサイティングな気持になってしまいます。今迄自分が思い描いた設計図が現実のものとして実を結ぶ瞬間なのです。
しかし一寸待って下さい。その計画に手落ちはないでしょうか。折角の良いアイディアもそれ自体が道理に適っていなければ、それは単なる不良品でしかない、と云う事に気付かなければ何の意味もありません。
道理に適う、つまり論理的な整合性の問題です。例えば自分の声をより響く大きなものにしたいと云う計画を立てたとします。そのためには、どのような訓練をしなければならないかと云う課題が待ち受けている筈です。
この時何が何でも大きな声を響かせようとすれば、恐らくこの計画は失敗に終るでしょう。何故ならばそこには論理的な整合性は見当たらないからに他なりません。
先ず響く声と豊かな声量と云うものに対する認識の甘さでしょう。声に豊かな響きがあるのは自分の声自体が響く事と、その声が空間で響くためには、声に雑音が混じらぬ事がとても大事な問題である見識が必要です。
雑音が混じるとは所謂噪音、楽音ではない事を意味します。これは声帯に無理な力や圧力などが掛かった場合に発生するもので、俗にいう濁声などがその例でしょう。濁声ではいくら大きく響いた声でも音楽に使う事は出来ないばかりか喉を痛めてしまいます。
この場合、響く大きな声ではなく、響く通る声を目指せば道理に適うでしょう。
この様に目的は同じでも物事についての知識や理解が無いと、全く違った結果が待っている事になるのです。ではこの計画の推進にはどの様な知識が必要なのでしょうか。
先ずブレスと声帯の関係についての知識が無くてはなりません。息が声帯を流れる事によって音声は発生しますが、息の量が多すぎれば音声は擦れてしまいます。声が響くと云う事は適量なブレスによって声帯を振動させた場合、その音声が響く空間を確保する事と、息のスピードが増せば声の響きや声量は増えると云う事も合わせて認識すべきでしょう。その為にはブレスと声帯だけに止まらず、口蓋の構造についての知識も必要でしょうし、声帯に関わる筋肉についても精通していなければ声のスピードを増す事は出来ません。
道理を弁えるのは大変な事ですね。

連載「新美声学」(うたのすすめ)071:実践:ブレスの仕組み

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連載「新美声学」(うたのすすめ)071:実践:ブレスの仕組み
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 この項からは歌唱技術の実際について述べて見たいと思います。先ずは息の仕組みです。
イメージ 2 左の図は肺と横隔膜の図です。お椀を伏せた様な形をした横隔膜は肺に付いているので、横隔膜が収縮し下方へ下がるとそれに連れて肺は下へ引っ張られ、中に空気が入る仕組みになっています。横隔膜が収縮すると下へ凹む結果、お腹が膨らみますので、これを腹式呼吸と呼ぶのでしょう。
これが腹式呼吸の実態ですが、歌う時には腹式呼吸が良いとされる理由は微妙なブレスコントロールが可能な事と、一律で滑らかなブレスが使えるからに他なりません。
腹式呼吸は鼻から息を吸えば誰にでも出来る呼吸ですが、寝息はその代表例で、鼻から吸って口から吐く練習で身に付けましょう。
鼻からスーとすって、口からプゥーと吐く。凡そ2秒程度の寝息が出来るようになったら吐く時に声を出してみます。
息を吐くだけなら2秒程度だったものが声を出すと長い間続くのは、呼吸だけの場合は声門が開いたままだったのに、声を出せば声門は閉じるので、声は長く続くのです。
この時大事な事は歌うからと云って息を押し出そうとしない事です。寝息で練習した様に横隔膜の自然な収縮でお腹が膨らむ、肺に空気が溜まると自然に横隔膜の収縮が止んで膨らんだお腹は元に戻ります。この動きに任せる努力をしなくてはなりません。それは恰も音の出るブーブー風船を口からパッと放せば自動的に風船は萎み音が出る様子に似て、横隔膜の動きに任せた吐気を習得するか否かに寝息発声法の成否がかかっています。
スーと吸ってプゥーと吐いた途端、中音量Mezza di voceのノンヴィブラートの声が出て、息が無くなる辺りで音程が多少下がるような声の出し方が出来れば、まさに寝息に任せた発声法が完成したと云えます。
この声の出し方こそが歌唱技術の最も大事な基本となる事は、全ての動作が自然で人間の身体の動きに即していると云う事でしょう。
自分が歌える全音域に対してこの寝息発声法で声を出す事が出来れば、発声法の極意の一端を会得した事になりましょう。声楽界に於いて最も厄介な問題は、息の暴力による怒鳴り声から脱却出来なかったからなのです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)072:実践:寝息と口蓋垂

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連載「新美声学」(うたのすすめ)072:実践:寝息と口蓋垂
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 寝息でノンヴィブラートの声が出る様になれば更に豊かに響く努力をしましょう。
図は口蓋垂です。中央に垂れ下がっているのが通称ノドチンコと呼ばれる口蓋垂ですが、口蓋垂を引上げる事により、軟口蓋の容積が増え、声の響く場所が確保されるのです。この口蓋垂を引上げる為には驚いて急な息を吸うと口蓋垂は反応し、引上げられるのですが、それは飽く迄も息を吸った場合の事で、肝心の歌う場合、息を吐く時に上がらなければ何の意味もありません。
息を吸って口蓋垂が上がった時に注意すると、瞳孔は開き眉が上がるのが確認されますが、この時耳朶の後方辺りの筋肉や後頭部の表皮が動く様子が分かります。この筋肉を使って吐気に動かす訓練をつめば、歌う際の吸気で上がった口蓋垂をそのまま吐気に継続して引上げたまま歌う事が出来るのです。
口蓋垂の引上げは声の響きを豊かにする為には欠かせない事ですが、そればかりか高音域に於ける重要な役割も見えて来ます。
声帯は音が高くなるにつれ伸びて薄くなっていきます。引き伸ばされるからこそ高い音が出ると云った方が適切かも知れません。しかしそれと引き換えに声もだんだん細くなり薄くなっていくのは仕方のない事なのですが、口蓋垂の処置によっては、ある程度の改善が施されるのを心得ておく必要があるでしょう。
高音になればなるほど音の振動数は増えますので細く鋭くなって行くのは悲鳴を考えると解り易いのではないでしょうか。人の声も高音になるほど薄く細くなるために、声の響く場所、つまり口腔の容積を次第に増やして行けば声の薄さや細さに対処できるのです。
高音を出そうとすると、どうしても横隔膜周辺に力を入れてブレスの圧力で声を押し出そうとするのが通例ですが、それによって喉周辺の筋肉は硬化し、ギスギスした声になってしまいます。高音域の対処としてブレスは寧ろ少なくて済むのですから、寝息の状態のまま口蓋垂の引上げ方を更に強くする事によって高音の声の薄さや細さを補うべきです。
高音を維持するためにはある程度の支えが必要になってきますが、息の圧力に頼る事なく、輪状甲状筋や胸骨甲状筋など声帯周辺の筋肉の働きで解決すべき問題なのです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)073:実践:ブレスのスピード

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連載「新美声学」(うたのすすめ)073:実践:ブレスのスピード
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 嘗て声速や声のスピードと云うタイトルでお話しましたが、具体的にはブレスのスピードの話ですので更に詳しく説明しましょう。
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左は気道と食道の分岐点の図です。声帯は気道の入り口にあり食物を摂ると喉頭蓋が閉じて誤嚥を防止します。
喉頭蓋が閉じると同時に声帯も閉じられますので、気道へ食物が入らぬ防止策が自動的にとられるような仕組みになっています。
水道の話をしましたね。水道の蛇口にゴムホースを繋いで水を出すと水が流れますが、この時ゴムホースの先を摘むと水の勢いが増します。しかし本来の水量と水道の水圧に変化はないのです。これと同じような事が声帯にも起ると考えて下さい。
寝息のブレスで声を出してみましょう。ノンヴィブラートの柔らかい声が出ます。
次に唾を呑み込むつもりで声を出します。するとかなりはっきりとした強い声が出るでしょう。これがゴムホースの先を摘んだと同じ状態の声帯の姿なのです。
なぜ唾を呑み込もうとして声を出せば声帯はゴムホースの先を摘んだ状態になるかと云えば、唾を呑もうとすると食道と気道の分岐点にある喉頭蓋と声帯は誤嚥を防ぐために自動的に閉じてしまいます。
ブレスは寝息でも強く豊かに響く声が出る。これはゴムホースの先を摘む原理と同じで、例え水量や水圧が同じでもホースの先を摘めば水の勢いは増す、つまり誤嚥を防ぐために自動的に閉じてしまう動作を利用して声帯を確り閉じてしまうと、声帯全体が長く使え、倍音が発生し易くなり、更に美しいヴィブラートのついた声が出る様になるのです。
例えてみれば同じピアノでもアップライトピアノよりも弦の長いグランドピアノを弾けばそれだけ音は豊かになると云う事です。
慣れてくればその都度唾を呑み込もうとしなくても声帯を確り閉じる事ができるようになりますし、声の響きを豊かにするとか声量を増すためには、息の圧力を増したり息の量を増やしたりせずに、このような声帯の操作による技術を覚えると、常に寝息のような一律でスムーズなブレスが使えるので、従来の怒鳴り声ではなく、美しいヴィブラートのある声を手に入れる事が出来るでしょう。

連載「新美声学」(うたのすすめ)074:ブレスに頼らぬ響く声

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連載「新美声学」(うたのすすめ)074:ブレスに頼らぬ響く声
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 3回に渡ってブレスの実践についてのお話をしてきましたので纏めてみましょう。
先ず歌に必要なブレスと云うものは声帯を通過する時に振動を与える役割であるのを確認する必要があります。ラッパを考えてみれば解る事ですが、大きな音を出したいからと云って大量の息で吹けば、ラッパの音は鳴りません。歌もこれと同じで大きな声を出したいからブレスの量を増やしても声帯に隙き間が生じ掠れ声になってしまうのです。この時息の圧力を増やし、声帯周辺の筋肉を緊張させれば大声は出ますが、これを噪音と呼び、声に雑音が混じるので、歌に使えるような楽音にはならぬ怒鳴り声でしかないのです。
楽音、つまり歌の声に必要なブレスのあり方とは声帯に適切な振動を与える量と圧力が一律に安定した息でなくてはなりません。
長い間、私達はこの声量と息の量や圧力について大いなる誤解を重ね、間違った正反対の方法で声を出して来ました。
声量と声の響きに息の量や圧力は全く関係のないものであり、寧ろ豊かな響きの声や会場の隅々まで通る声には害を齎すものである事をこの際確りと肝に銘じるべきでしょう。
ではどの様な方法でこれらの歌唱技術を習得すれば良いのでしょう。
声をコントロールするのは声帯であってブレスに因るものではないと云う見識を持たねばなりません。声の大小を水道に例えますと水量を調節するのにわざわざ水道局に電話をする人はいません。水道の蛇口で十分調節できるからです。これと同じように声帯を振動させるために必要なブレスは水道の水圧や水量のように適切な一定量が望ましく、声の細かい調節は蛇口、つまり声帯でおこなうべきだと云う仕組みを知るべきです。
そもそも大きな声など不必要で、いかに通る声が必要かを知る事が先決でしょう。その上、豊かに響く声を造るためには声帯を十分に振動させ得る一律なブレスが必要です。
声帯を確り閉じる事を声門閉鎖と呼びますが、これが出来れば声帯全体を使った声を出す事ができるので、声にはヴィブラートと倍音が付き、更に口蓋周辺の口蓋垂、舌根、鼻腔などの共鳴環境が整えば、自然に豊かで通る声が生れるに違いなく、例え声量が必要な時でも完全な声門閉鎖により大きな通る声が得られます。この様にブレスに頼らぬ事こそ最良の発声技術であるのを知るべきです。

連載「新美声学」(うたのすすめ)075:和製デモクラシーⅠ

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連載「新美声学」(うたのすすめ)075:和製デモクラシーⅠ
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 私は1935年生まれ、昨年喜寿を迎えました。
太平洋戦争が始まったのは6歳の時、開戦直後は真珠湾攻撃で敵艦隊を殲滅した事で連日のようなパレード、提灯行列の戦勝ムードにまるでお祭りのような日々を過ごしていたのを覚えています。賑やかな戦勝ムードに日が陰り始めたのは何時頃の事だったでしょう。アメリカ軍の爆撃機が日本本土に襲来するようになり、毎日のように空襲警報が発令される日が続くようになりました。戦後になって知った事ですが、この時すでに日本の制空権は失われていたと云う事です。しかしそれでも大本営は日本軍の戦果が上がっていると発表し、国民も戦況が思わしく無いなどと考える余地すら与えられなかったのが実情でした。そして疎開先で聴いた玉音放送、何の事やらさっぱり分かりませんでしたが、戦争に負けた事を後で知りました。
アメリカ軍が日本を占領して子供達が最も喜んだのはアメリカのチョコレートやチューインガムが手に入るようになった事でしょう。それまで菓子は疎か、米さえも満足に食べる事は適わず、鉄道ひな菊(ぺんぺん草)を乾燥させ、粉にして焼いたパンや、さつまいもの蔓を湯がいて飢えを凌いだのです。
大人達にとって敗戦とは自分が信じていた大日本帝国の精神が全て崩れ落ち、それとは全く正反対の民主主義という思想が導入された事に対する戸惑いでした。
子供達の教育も朝礼で毎朝暗唱させられた教育勅語や修身の教科は無くなり、代わりに英語などの外国語の教科が取り入れられ、個人の権利や義務などの言葉が飛び交うようになったのも敗戦のお陰でしょう。
アメリカの食料支援で餓死寸前だった日本は息を吹き返し、戦後の復興に取り組んだのですが、肝心のデモクラシーの思想はアメリカの草案による日本国憲法に依存したままで、日本人が自分達の手で日本の民主主義を造り上げようとする姿勢や意欲はどこにも感じる事はできませんでした。それだけではありません、アメリカ占領下の時代が続いた後、サンフランシスコ講和条約が結ばれ翌年の春、条約が発効したため、日本は独立国として世界に認められる事になったのですが、日本人の大部分が現在でも、この日を独立記念日だと記憶している人は余り見当たらないのです
なぜこんな事になってしまったのか、それは多分多くの人々が国家の独立を願う気持が希薄だったのではないかと思われます。(続)

連載「新美声学」(うたのすすめ)076:和製デモクラシーⅡ

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連載「新美声学」(うたのすすめ)076:和製デモクラシーⅡ
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 食料も憲法も平和もアメリカから与えられ、安穏と暮らせる占領下に於ける生活から独立国へ立ち上がるなどという勇ましい決断を下す必要もなかったでしょうし、戦争を起こした責任についても、極東国際軍事裁判が開かれ、何人かの被告人は処罰されたものの、国民一人一人に戦争を起こした事に対する総括はなされぬまま今日に至ってしまったのです。
今迄軍国主義の社会で過ごして来た生活が、敗戦を機に一転して個人の権利を最優先に置く民主主義へと移行するための心の準備や知識などが不十分なまま独立の日を迎えた人々は戦争の原因や善し悪しなどの整理もつかぬ間に今日まで生き長らえたため、政治に対する見る目を養わなかったのでしょう。
21世紀に入って日本の国民総生産は世界3位に上りつめました.日本人の勤勉さ就学率の高さにも因るのでしょうが、何よりも日本に繁栄を齎した原因は戦後、他国と紛争を起こさなかった事だと思います。
核兵器によって敗戦を強いられた日本人は世界で最も強力な兵器の洗礼を受けた唯一の国民であるのは紛れもない事実ですが、戦後幸いにして如何なる紛争にも巻き込まれなかったのは不安定な世界情勢が続いている現在、奇跡的幸運としか云いようがありません。日本は世界の経済大国と云われるようになって久しいとは言え、現在、国家の台所はそれ程豊かではない事が分かってきました。歴代の内閣が赤字国債を発行し、膨大な累積赤字があるのです。
景気が右肩上がりの経済成長期では赤字国債を発行してでもこれを支える準備は必要だったかも知れませんが、世界的に見ても長いデフレ、不景気に見舞われている現在、安易に増税のみでこれらを解決出来るとは思えません。
世界的な不況の中で他国の紛争に巻き込まれる事はなかったものの、日本は度々大震災に見舞われました。そして平成の東日本大震災では地震、津波の災害に止まらず、福島第一原子力発電所ではメルトダウンの大事故に見舞われてしまったのは、弱り目に祟り目と云うか不運の限りと云わざるを得ません。原爆の被害に遇った国民がまたしても原発の被害を被る事になってしまったのは果たして自然災害とばかり云えるものなのでしょうか。
戦後の日本の政治は55年体制と呼ばれたように長きに渡って自民党の政権が続いた事は日本の発展だけではなく、その陰の部分も作り出してしまいました。(続)

連載「新美声学」(うたのすすめ)077:和製デモクラシーⅢ

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連載「新美声学」(うたのすすめ)077:和製デモクラシーⅢ
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 官僚主導の政治体制、原子力発電の導入による各界の癒着、慢性的な赤字国債発行、数の論理が全ての民主主義、金権政治、言葉の置き換えによる本質の隠蔽政治、など枚挙に暇がありません。こうなれば一党の長期政権が続く弊害が現われ始めるのも無理の無い話でしょう。
それでも日本は戦後何回かの政権交代を経験したのですが、何れも短命に終っています。
新しいものに対する警戒心の強い国民性が政権交代を難しいものにし、新しいものを育てようとする意欲的な考えよりは古くても安心感のあるものを選ぶとでも云うのでしょうか、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、などの諺がこれらを言い表しています。 
これらの古い諺に示されるような日本人の感性、処世術は戦前の封建的な考えを引きずっているわけで、戦後日本に導入された民主主義は呼び名や形は民主主義であっても、その中身は以前と何ら代わり映えしない物の考え方と云えるのかも知れません。名付けて和製デモクラシーとでも云いましょうか。
ではこの和製デモクラシーは何故生まれてしまったのでしょう。その原因は偏に国民が戦争を総括出来なかった事に因るものでしょう。
我々は何時の世も政府に騙され続けて来ました。日本は神の国だから戦争に負ける筈はない、いざと云うときは神風が吹いて我が国を勝利に導くだろう。戦後は所得倍増計画、日本列島改造論、日本郵政改革、戦後レジームからの脱却、コンクリートから人へ、日本を取り戻そう、など耳に心地よい言葉の羅列で、全て実現されていれば日本は途方もない国家になっていた筈です。なぜこのような虚言がまかり通ったか、全ては私達一人一人が戦争をどう捉え、総括したかの作業を果たさず、民主主義の根底理念を理解しないまま現在に至ったために、政治に対する関心、権利、義務などがないまま、選挙で1票を投じるだけの儀式化した民主主義のあり方しか身に付かなかったからでしょう。
第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーン、ゲティスバーグの演説、
and that governmentof the people, by the people, for the people, shall not perish from this earth. 
この言葉に言い表された理念こそが民主政治の根幹をなすものとして、私達は改めて日本の政治を見つめ直し、即席の和製デモクラシーではない、本当の意味でのデモクラシーを日本に再構築する義務があると感じるのです。(完)

連載「新美声学」(うたのすすめ)078:粗食のすすめ

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連載「新美声学」(うたのすすめ)078:粗食のすすめ
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

 こう不景気になってくると、贅沢をするとは云っても、せいぜい旨い物を食べるくらいのことしか出来なくなってきたご時世ですが、旨い物といってもピンからキリまでありまして、例えば鮨ひとつとっても、回転寿しから銀座老舗の鮨屋まで、値段をみても桁違いのお勘定となるわけです。
和食にかぎらず日本には今や世界各国の料理が味わえる高級料理店が存在し、地元で食べるよりも旨い世界各国の高級料理が日本には存在するという、まことに不思議な現象すら見られるようになりました。 
世の中不景気なのだから海外旅行や高額商品の購入などは叶えられぬとあらば、せめて家族で旨い物でも食べに行こうか、という話が持ち上がるのも無理からぬ話で、いきおい食道楽にまっしぐらという生活形態が形成されてしまうのでしょう。
週に1度は家族で旨い物を食べようという生活を覗いてみましょう。旨いものというからには最低一人当たり1万円くらいの出費は覚悟しなくてはなりますまい。これを4人家族で1年間、つまり52週続けたとすると、年間208万円の経費が増える事になります。これを定年まで30年間の総支出を割り出すと、なんと6240万円にのぼってしまいます。初めは贅沢を抑える対案としてうまれた、ささやかなグルメの企画ではありましたが、人間まずいものよりも旨いもの志向であるのは、麻薬のように一度覚えればなかなかそこから抜け出すことは出来ぬ罠なのです。一見僅かな贅沢のようにみえるこれらの美食志向は知らぬ間に自分の退職金くらいの経費を使い果たしてしまう、蟻の一穴でもあることを見据えなければならないでしょう。
おまけに長い間美食に偏った食生活は、親達はおろか子供達ですら成人病の原因をつくることになり、極めて無益な出費を続けてしまったと云わざるをえません。
昔の賢人が長生きの秘訣は「粗食を腹八分目に」といったのはこれらのことに言及したのではないかとも考えられます。 
グルメとダイエットブームが未だに続いているのも不思議な現象で、高カロリーの食事をとりながらダイエットするなどと矛盾した考え持つ事自体、浅はかな自爆行為でしかありません。答えは簡単明瞭なのです。
成人病や肥満になりたくなければ粗食!
この一言に尽きるのではないでしょうか。
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